サリエリとモーツァルトの関係

アントニオ・サリエリとモーツァルトの関係性がわかる年譜を通じて、二人の偉大な作曲家の生涯を見てみましょう。

サリエリとモーツァルトの生涯

アントニオ・サリエリは、その晩年、「モーツァルト毒殺疑惑」で汚名をきせられると、その死後も映画『アマデウス』で嫉妬に駆られた卑怯な男として登場し、天才作曲家モーツァルトに毒を盛ったとする偽説を流布させられてしまいました。

しかし、そのような毒殺説や人物像は事実無根です。

では、実際にはどのような人物であったのか、サリエリとモーツァルトという偉大な二人の作曲家の人物や関係性がわかる年譜を見ていきたいと思います。

サリエリ 西暦 モーツァルト
8月18日、レニャーゴ(ヴェローナ)で生まれる 1750年 (まだ生まれていない)
(サリエリとモーツァルトは6歳差) 1756年 1月27日、ザルツブルクで生まれる
母親死去。父親失踪。サリエリ家の子供達がピンチに 1763年
父親の知人が一家の惨状を知り、サリエリをヴェネツィアのモチェニーゴ家へ預ける。その後、ガスマンに弟子入り 1766年
25歳で結婚 1775年 ヴァイオリン協奏曲(K.207他)を作曲
次女誕生(長女は前年誕生) 1778年 母親死去。就活失敗。アロイジアに失恋
三女誕生 1781年 コロレド大司教から「ろくでなしのガキ」「アホ」と罵られる。即刻辞職願い。ヨーゼフ2世から作曲を依頼される。しかし、モーツァルトから音楽を学ぼうとしていた公女の先生にサリエリが選ばれ、『皇帝は僕の面子を丸つぶれにしました。サリエリにしか関心がないのです』と父宛の手紙で怒りをぶちまける
長男誕生 1782年 コンスタンツェと結婚。出世の道が開けないためか『サリエリには公女にクラヴィーアを教えることなんてできませんよ!彼がせいぜい苦労してできることといえば、誰か別の人を推してこの件で僕を妨害することだけです。彼ならやりかねません!』と父親宛の手紙で苛立つ。ちなみに、サリエリがモーツァルトの出世を妨害したという事実はない
10月13日モーツァルトから《魔笛》の再演に招待される。12月4日、瀕死のモーツァルトを見舞う。6日(または7日)にモーツァルトの葬儀に参加 1791年 サリエリらを《魔笛》の再演に招待する。その際の様子を妻宛の手紙でこう書いている。『彼らは口をそろえて言った「これこそオペラだ。きっとまた何度か観に来よう。こんなに素晴らしい、気持ち良い出し物は見たこともないので」。彼(サリエリ)は序曲から最後の合唱まで、実に注意深く、観たり、聴いたりしていたが「ブラヴォー」とか「美しい」とか、およそ感嘆の言葉を吐かなかった曲はなかった。そして僕の好意に対して、いつまでも繰り返しお礼を言っていた』しかし、その7週間後の12月5日に死去。35年の生涯を閉じる

ここから先はサリエリの年譜

1792年 モーツァルトの弟子であったジュスマイヤーがサリエリに弟子入り
1794年 ベートーヴェンが弟子入り。サリエリは無償で声楽の作曲のレッスンをした
1807年 サリエリの弟子で、モーツァルトの四男フランツ・クサーヴァーのために推薦状を書く。妻死去
1808年 シューベルトが弟子入り。無償で週2日の個人レッスンをかってでる。当時のシューベルトについてサリエリは「あの子は何でもできます。オペラでも、リートでも、四重奏曲でも、交響曲でも、作曲したいものは何でも作曲します」と述べ、その才能を高く評価していた
1817年 才能ある音楽家へは無償の教育をするという方針を堅持していたが、弟子が増えすぎたため、楽友協会の歌唱学校を設立。のちのオーストリア皇帝音楽院(現・ウィーン国立音楽院)の礎となった
1822年 フランツ・リスト弟子入り。1882年の回想でリストは「(サリエリは)とても慈悲深く親切に私を教えてくれました。作曲法ではなく、彼の時代に用いられた様々な声部記号と演奏の仕方について指導してくれたのです。私は彼に今も深く感謝しています」と述べている
ロッシーニと面会。その際に「あなたは本当にモーツァルトを毒殺したのですか」と訊かれ、「私の顔をしっかり見てごらん。人殺しに見えるかね」と姿勢を正して言ったという
1823年 転倒や馬車との接触事故などで入院を余儀なくされる。面会に来た(かつての弟子である)モシェレスに「私は名誉にかけて、あの馬鹿げた噂に一つとして真実がないと断言できる。私がモーツァルトへ毒を盛ったという話をあなたも聞き知っているだろう。だが、それは事実じゃない。モシェレスさん、それが悪意ある中傷以外の何物でもないということを世間の人たちに言ってもらいたい。老いたサリエリが、死の床であなたにそう言っていたと」と途切れ途切れの言葉で訴える
1824年 5月23日、ベートーヴェンの交響曲第9番再演の演奏会の最中に、サリエリがモーツァルトを毒殺した旨の内容のビラを屋上から撒く事件が起こり、警察沙汰になる。当局の調査で医師が毒殺説を否定。看護人らがサリエリの自殺未遂や自供の噂話を否定
1825年 5月7日死去。75年の生涯を閉じる
1830年 ロシアの詩人プーシキンが「モーツァルトとサリエリ」という毒殺説に沿った小劇を書く
1898年 同上の小劇をリムスキー=コルサコフがオペラ化する
1984年 映画『アマデウス』上演。原作者のピーター・シェファーと映画監督のミロス・フォアマンは、この映画の製作のために田舎で1週間に5日、1日12時間、他人に会うことなく、お互い、あらん限りの想像力をぶっつけ合って映画化への咀嚼を続けたという


参考文献
1987年『アマデウス モーツァルトとサリエーリ』海老澤他(TBSブリタニカ)
2004年『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』水谷彰良(音楽之友社)

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